時は明治 。筑波の山を背景に吹上山の松の緑が染み入る紺碧の空のあなた、鬼怒の流れを悠々とゆく高瀬舟の白帆が、まるで一幅の絵のように美しかった時代。
水海道は鬼怒の恵沢によって栄え、茨城県下、水戸と並び称される経済力を誇り、
進取の精神に富む水海道旦那衆が、ユニークな常総文化の花を咲かせた自由で文化の薫り高いまちであった。
明治28年(1895年)、弥生三月。桜咲く穏やかな春の日のこと。
水海道の横町(現・栄町2615番地)に、間口わずか一間半の小さなはんこやが店を開いた。
屋号は平安堂。 店主の名は、水戸藩印刻士・山本亮三門人、椎名恒二郎、若干23歳。
椎名恒二郎は、「第四回内国博覧会」印判部門最優秀賞受賞者として、平安遷都千百年紀の京都に建立された平安神宮の印を奉納した技能士であり、水戸藩印刻士・山本亮三の門弟中、筆頭の腕前であった。椎名恒二郎にとって、この日は師匠山本亮三の命により、水戸を出て茨城県南西の発展著しい水海道に新たな地平を切り拓くべく独立の日であった。京都平安神宮から誉号として賜った平安堂を屋号とした青年椎名恒二郎の出発の日であった。同時に、はんこや平安堂の歴史の第一章が語り始められた日でもあった。
しかし、椎名はこの時知らなかった。自らの運命としては、3年後夭折してしまうことになるのを。
はんこや平安堂の命運は、しかし、明治、大正、昭和、平成へと激動の時代を受け継がれ、百年の春秋を数えることになるのを…。
初代
椎名 恒二郎
明治5年(1872)2月17日生〜
明治31年(1898)2月12日没
明治28年「第四回内国博覧会」 印判之部 最優秀賞受賞作
※京都平安神宮所蔵
二代目
鬼澤 辰之助
明治10年(1877)2月10日生〜
昭和40年(1965)2月21日没
三代目
椎名 勝
明治30年(1897)9月30日生〜
昭和54年(1979)8月26日没
四代目
海老原 盛行
大正 5年(1916)12月28日生〜
平成12年(2000)12月20日没
五代目
海老原 良夫
昭和24年(1949)12月20日生〜